“東京五輪1964”と園の創立50年
お子さま達の熱中症を心配せずに、思い切り外遊びを楽しませられる爽やかな10月を迎えました。
園内は1週間余前に盛大に行われたスポーツフェスティバルの余韻が今なおお子さま達の間を駆け巡っております。
競技をお手伝い下さいました父母の会の役員の皆さまをはじめ、小道具などの作成をいただいたクラスのお母さま方に、心から厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
お子さま方の並ぶ姿、列をつくって行進する姿勢をはじめ一つ一つの競技に取り組む態度や精一杯に力を出す真面目さ、どれ一つ取っても感動せずにはおられませんでした。わが園のお子さま達は日本一です!!
さて、私は未来に向っての思いや夢を語るのは好きですが、過去をふりかえって語ることは余り好きではありません。ですが、今日は思い切って50年前の昔話をさせていただきます。おゆるし下さい。
50年前といいますと、私のトシは30歳か31歳の頃です。昭和39年・1964年でした。
私は、小学生の頃から「学校の先生」という職業が何より好きでしたので、母の猛反対を押し切って高校や短大の先生になって8年目頃のことです。国(文部省)は、「幼稚園教育要項」を公布して、国の人づくり政策として「幼稚園教育振興7ヶ年計画」を昭和39年7月に打ち出しました。丁度、高校教師にマンネリを感じていた時ですので、この国策の幼稚園教育計画に飛びついて、道教委をたずねまわり、文部省の指導を仰ぐなど、自分として考えられない程のスピードで「幼稚園づくり」にのめり込んでしまいました。
気がついてみたら学校法人を設立して、資金調達に走り回り、莫大な銀行借入れをし、土地を購入して園舎を建て、教職員を雇用して学校法人の理事長兼幼稚園長になっていたのが、東京オリンピック1964年の10月10日(開会式)でした。
白黒テレビで放映された国立競技場の聖火台にランナーが点火した聖火の色が私の記憶には、「赤赤」と燃えさかっているのです。
日本の国は、東京オリンピック1964年から今日までの50年、想像もつかない変化を続けてきています。(私は、ここで敢えて発展とか進歩ということばを控えます。)
7年後の2020年の日本の状況を今の時点で正確に語れる人は、誰もいないでしょう。
私は、日本の国民すべてにとって “一番幸せな国づくり”は何か、を一人ひとり静かに考える心づくりを幼児教育を通して実践してゆかなければならない、と考えております。